プロフィール

自己紹介(我慢できない、野望もない人間がピアノ教室を開くまでの経緯)

 

海に浮かぶヨット

 

 

 

 

 

 

「おんがく教室 ぴあぴあ」は

私がひとりでやっている教室です。

 

”○○メソッド”

”○○認定”

などありません。

 

ですから

教室の方針を知っていただくには

私がどうやって音楽と関わって生きてきたのか

なぜ教室を始めたのか

知っていただくのが良いかと思います。

少し長くなりますが…。

 

マイペースな子どもが耳コピにハマり音大へ進学

私は会社員の父と専業主婦の母、兄と弟の5人家族に育ちました。

 

5歳ごろ、祖母宅でピアノに触ったのをきっかけに興味を持ち

大手楽器店の音楽教室に通いはじめます。

両親ともにピアノの素養も熱意もありませんでした。

 

音楽教室のレッスンはグループレッスン。

幼稚園の延長みたいでした。

 

お友達と一緒に

リズム遊びや歌を歌ったり

オルガンを弾くのです。

とても楽しいものでした。

 

けれども数カ月後、

先生のすすめで受けた進級試験に合格し

クラスが変わり事態が変わります。

 

新しいクラスは

ガチのレッスンが受けられる

作曲の基礎を学ぶクラスでした。

 

クラスの雰囲気がガラッと変わり

「楽しくない」

「先生怖い」

とヘタレの私はあっさり挫折。

 

ピアノへの熱意のない両親でしたから

私の訴えは

あっさり受け入れられ

音楽教室に別れを告げます。

 

ただピアノを買った後だったので

プライベートレッスンを受けられる

優しい町の先生のもとでレッスンを再開します。

 

原点は耳コピ遊び

小学生当時

私が当時好きだったのは

「耳コピ遊び」

でした。

 

毎日暇さえあれば

テレビアニメの主題歌を

片っ端から弾いて歌って遊んでいました。

「アルプスの少女ハイジ」

「フランダースの犬」

「ウルトラマン」

「仮面ライダー」

「タイガーマスク」

「宇宙戦艦ヤマト」

などなど。

「パルナス」

「この木何の木気になる木」

「キザクラ」

など、CMソングも耳コピしていました。

 

アニメ主題歌やCMソングから始まった

「耳コピ遊び」が

ポップス、洋楽、ミュージカル曲へと幅が広がり、

そのうちクラシックに到達します。

 

「クラシック」という意識はなく

CMソングやドラマのBGMに使われていたメロディーを

耳コピし、

部分的に知った曲の全体が知りたくなって

ラジオ番組をエアチェックして録音する日々が始まります。

 

昭和ですから…

 

聴きたい曲にすんなりたどり着ける時代ではなかったのです。

 

気になる曲を手に入れるのには

それなりの努力が必要だったのです。

 

音楽ならジャンルを問わず好きでしたが、

中学生になり、オーケストラ部に入ってからは

クラシック音楽に魅了され

高校2年生の時に、音大受験を決意。

ピアノの先生の勧めで作曲科に進学しました。

 

卒業後、なんちゃってOLを経て海外へ

音大を卒業後、音楽とは関係ない一般企業で会社員になります。

「音楽で食っていくぞ!」

という固い決意もなかったので

簡単に潜り込めた企業に

何となく就職…という

甘っちょろい流れです。

 

めでたく会社員になった私は

時間とお金の許す限り劇場を巡りました。

 

音大は楽しく充実していましたが

レッスンと課題提出に追われ

忙しい毎日でした。

そういう重圧をエネルギーに出来る人は

大成するのでしょうが

私はそういうタイプでもないので

卒業して

課題提出とレッスンの日々から解放され

楽しくコンサートに行けるのは最高でした。

 

けれども数カ月ほどたつと、次第に物足りなくなるのです。

 

課題に追われる重圧はいや

でも

何のプレッシャーもなくただ楽しいだけではいや

わがままな甘ちゃんですね。

こんなところに書くのもお恥ずかしいです。

 

そしてそういう甘ちゃんがしがちな

「外国へ行こう!」

発想。

 

音楽での留学なんてシンドイことはしません。

 

「ヨーロッパでたくさんコンサートに行ったら楽しいだろうな…。」

これだけです。

でも20代の若者にはこれだけで十分なんです。

 

そんなことを思い始めてから半年後にはもうイギリスへ旅立っていました。

 

それから一年余り、

イギリスを拠点にドイツ、オーストリア、イタリアやフランスなど各地を訪れました。

 

劇場での仕事と音楽愛好家たちとの出会い

帰国後、大阪の小さなコンサートホールで働きはじめます。

チケットもぎりや客席案内から仕事を覚え、

VIP対応や出演者のお世話、

最終的には現場スタッフの責任者になりました。

 

みんなでコンサートの準備、本番

そして時には打ち上げにまで参加させていただいて

大変でしたが充実した毎日でした。

 

劇場では音楽を通じて多くの人たちと知り合いました。

 

プロのアーチストやマニアックなお客さんたち、

音楽事務所の社員さん、

元バンドマンの技術さんなどなど。

 

中でも印象的だったのはアマチュアの音楽家達との交流です。

アマチュアの音楽家達は、学生、主婦、会社員など

立場も年齢もやっている音楽も様々でした。

 

クラシック、ハワイアン、ディキシーランド、邦楽など…。

 

彼らはステージ本番の緊張感とは対照的に、

打ち上げでは生活感丸出しの話で盛り上がるのです。

 

皆さん日常の雑事との折り合いをつけつつ、

音楽を続けられているエピソードを面白おかしく話されていました。

 

「人生にはさまざまな局面があり、

時間もお金も自由になるわけではないけれども

音楽がある日々は幸せだ。」

と、嬉しそうに話されていました。

 

娘の誕生と導入レッスン開始

五年あまり劇場で務めた後

結婚し娘が産まれます。

娘は

のんびりマイペースな私から生まれたとは思えない

エネルギッシュで活発で

とにかく動き回る子どもでした。

 

そんな野生児のエネルギーを発散させるべく

公園通いの毎日をおくることになりました。

 

人生ではじめて「ピアノどころではない」生活でした。

 

出産後すぐに現役演奏家に復帰する友人もいましたが

頑張り屋さんでない私は

「ピアノ・・・まあいいや。」

と目の前の娘を追いかける間、

ピアノは一旦置いていました。

 

そんなある日、公園でママ友に

「うちの子達にピアノを教えてくれないかな?」

と、頼まれます。

男の子の双子のママでした。

 

私もそろそろ娘にピアノを教えたいと思っていましたが

野生児の娘がじっと座ってピアノの練習をするかな…と思っていました。

 

「導入レッスン」といえば大手楽器店の音楽教室が有名なのですが

私には勝手なトラウマがあったため気が進みません。

 

そんなことをママ友に話したところ、

遊びの延長線のような形で

三人一緒にグループレッスン試すことになりました。

 

白黒の鍵盤の中からどうすれば「ド」を見つけられるのか。

音符の「ド」と音の「ド」鍵盤の「ド」がどうすれば結びつくのか。

リズムの「タン」と「タタ」を区別できるのか。

拍子と拍を理解するにはどうすればよいのか。

双子と娘を相手に実験を繰り返し導入期の楽譜も手あたり次第に研究します。

 

大変でしたが娘を追いかけて走り回る数年間忘れていた

音楽と向き合う楽しさを思い出しました。

 

この遊びのようなグループレッスンは1年半ほど続きました。

 

小学校入学を目前に双子達は転居したので、

この3人の導入レッスンは終わりを迎えます。

幸い3人とも楽しくレッスンを続けてくれたので

基礎的なことは身に付いたと思います。

 

娘達のレッスンが終わってからも

口コミでレッスンの噂が伝わり、

このグループレッスンは続きます。

まだ

「おんがく教室ぴあぴあ」

という形ではありませんでした。

 

「楽しく基礎が身に付くように」だけにフォーカスしたレッスンを

「コンセプトが決まらないまま、なんとなくスタートした感

」が否めない時期です。

 

娘のマネージャーに就任

さて導入レッスンを終えた娘ですが、

続きのレッスンは学生時代の友人に託することにしました。

 

娘のレッスンを友人に託したことで、

私は

娘をレッスンに通わせる母

としてのデビューをしました。

 

レッスンは友人にお願いしたのですが

自宅で練習させるのは私の仕事です。

 

先生が「監督」なら

私は「マネージャー」。

 

娘はピアノが好きでしたが、

ピアノと同じ時期にはじめたテニスが

明らかにピアノより気に入っていて

ピアノは長続きしない予感がしていたので

短期決戦でいくつもりでした。

 

つまり

自立的にピアノを弾けるようになるまで

出来るだけ短い期間でもっていく作戦です。

 

そのためには毎日1時間はピアノに向かわせたいところだったのですが

毎日40分を目安にしました。

「毎日ピアノに座らせる」

たったこれだけのことが

どれだけ大変なことか…。

 

小学校に入ったばかりの娘の生活ですが

学校から帰ると

毎日友達と公園に遊びに行き

5時まで帰りません。

8時半にはベッドに入っていたので、

その間に

宿題

食事

お風呂などを済ませる。

それらの合間に

ピアノの練習を挟み込むのです。

 

野生児ですから汗だくだったり、

膝から流血していたり、

弟と喧嘩して機嫌がわるかったり

日々のコンディションはさまざま。

 

「嫌な気持ちでピアノに向かうことのないよう。」

「ピアノを毎日弾くことが「当たり前」になるように。」

そんなことを心掛けました。

 

そこで時間を、固定するのが手っ取り早いと考え

色々試した結果、

朝食後

宿題後

夕食後

宿題の曲を3回ずつ(大体各15分)弾くこと。

 

これだけを習慣にしました。

 

「これだけを」とはいえ

生活はピアノを中心に回っているわけではなく

むしろピアノ以外のほうが中心です。

 

ピアノを弾くことより、

ゆっくりよく噛んで食べることや、

お箸の持ち方を教えるほうが大切です。

 

宿題の文字は丁寧に書いてほしいし、

お風呂はゆっくり楽しく入りたい。

寝る前には

本の読み聞かせもしたいのです。

 

この頃のことを振り返ると、

記憶が切れ切れにしかない位忙しくて

毎日の時間をどうやり繰りしていたのか謎です。

 

子育て中のお母さんたちは皆さんそうだと思いますが…。

 

ただこの頃の、

バタバタ子育てした経験が

今レッスンをする上での根幹になっているのは間違いありません。

 

子ども達のレッスンをする際に

忘れてはいけないのは、

「子ども達には音楽以外に覚えなくてはいけないことが山ほどある。」

ということ。

 

ピアノの練習は

最優先にはなり得ません。

 

当たり前のことなんですが。

 

大体音大出身の人々は、

子どもの頃から普通に何時間もピアノを弾いてきた人達

つまり「音楽の中に生活があった」人々。

 

だから優秀で熱心な先生ほど、

そういう普通の事が分からなくなってしまうのでしょう。

もちろん、ピアノで天下をとろうという人は

それで良いのですが。

そうでない人には当てはまらないことだと思います。

「音楽の中に生活がある」

ではなくて

「生活の中に音楽」

がある。

ということです。

 

生活の中に音楽がある幸せ

さて娘は、少しずつ練習が習慣になってきます。

 

「練習」の意味も少しづつ理解するようになり、

私に「練習方法」を聞きにくるようになってきました。

 

うまくいかない時は、

「練習量」か「練習方法」

どちらかで解決するのが分かってきたようです。

 

そんな風に成長する娘の姿を見るのは本当に嬉しかったです。

 

娘がピアノを弾くと、

息子も横で歌ったり踊ったり。

そんな音楽を介した時間が幸せでした。

 

昔出会ったアマチュア音楽家たちが

日常生活に忙殺されながらも、

やり繰りして音楽を続けていたのが思い出されました。

 

忙しい毎日だからこそ、

一見ムダに感じる音楽を楽しむ時間に

価値があるのかもしれません。

 

子ども達が大きくなっても

「一緒に音楽を楽しみたい」

という思いを強くしました。

 

その思いは教室に来ている子供たちに対しても同じです。

私が子ども達に教えたいのは、

ただピアノを上手に弾く技術ではなくて

日常に音楽がある楽しさなのです。

 

ピアノのレッスンを通して、

演奏する楽しさ、

鑑賞する楽しさ、

いろいろな文化や人の歴史を想像する楽しさなどを伝えたいのです。

 

そんな気持ちが固まったタイミングで

音楽教室ぴあぴあ

として教室を本格的にスタートしました。

 

2005年のことです。