子ども達との会話は「子供だまし」ではなく真剣勝負で挑むのはなぜか
子ども達との会話は「子供だまし」ではなく真剣勝負で挑む理由
小さな嘆きってどんな嘆き?
ブルクミュラー作曲「25の練習曲」という美しい練習曲集があります。
18世紀ロマン派らしく
楽曲がどれも美しいのが魅力です
そして
全ての曲にタイトルがついているのも魅力的です
タイトルは
「素直なこころ」
「アラベスク」
「牧歌」
などなど。
18世紀のヨーロッパの文化や舞踏のことなど、
子ども達との会話が弾みます
そんな中で
「小さな嘆き」という曲があります。
感情を表現するタイトル
こういうタイトルの話をする時
「子供だまし」で終わらせたくないと私は考えています
タイトルの意味を尋ねると子ども達は
???
何のことやら…
という反応です。
そこで
私自身が最近感じた
大きな嘆き、中くらいの嘆き、小さな嘆きの例を
話します
そして、子ども達に考えてもらいます。
牛乳では嘆きが大きすぎる
ある小学生の女の子が考えてきた
「小さな嘆き」がとても印象的でした
その女の子は
じっくり考えるのが好きな子だったので
宿題として「小さな嘆き」を考えてきてもらいました
次の週の回答が
飼っていた鳥が死んでしまうのは大きすぎる嘆き
傘を忘れたのは小さすぎる嘆き。
宿題にお茶をこぼしたのが小さな嘆き
というもの
もし、こぼしたのが牛乳だったら
後が臭くなるからまあまあ大きな嘆きになると思う
だから、私の小さな嘆きは
「学校の宿題にお茶をこぼした」ことだと
それは確かに
小学生の子どもの
「小さな嘆き」だと感心しました。
一生懸命考えてきたという事にに
感心したのと同時に
この女の子は自分の感情と
「客観的に向き合う」
ということやってきたことに
感心しました。
音楽に限らず、
何かを「表現する」というのは
感情に飲み込まれるのではなく、
客観的に感情を分析できる能力ではないかと思います
小学生の女の子がそんな凄い事を
あっさりやってしまうなんて
すごいと思いませんか
もちろん、まったくピンとこない子供もいます
けれども、その子どもに対して
「大人になったらわかると思うけど、
ちょっとした嫌な事ってあるよね
こけて膝をすりむいたとか・・・」
と適当に簡単な例えを準備してしまうのは避けたいと考えています。
わかっていなくても
真剣に説明するのです
子供だから「まだわからない」
かもしれません、
けれども「いつ分かるのか」
は誰にもわからないです。
だったら、ずっと真剣に話をするべきだと思うのです。
「わかる」瞬間を逃してしまっては大変ですから
常に真剣勝負で挑むのです…大げさですけど…
子ども達をみくびらない
子どもを見くびってはいけないと思います。
子どもは知識や経験が少ないかもしれません。
けれども、
それは物事を知らないだけであって、
決して
感性が未熟だということではありません。
特に芸術的な面では
子どもたちの感性は驚くほど鋭いことがあります。
「バッハは独り言みたいな音楽だ」
「モーツァルトは嘘つきだと思う。本当の自分を出すのが恐いんじゃないかな」
など、
ちょっとしたコピーライティングのような感想を
子ども達は平気で言います。
それは折に触れ
作曲家のこと
時代背景のこと
人の感情のこと
など何でも今伝えようと私が感じたことを
真剣に話をしているからこそ
聞けた言葉なのではないかと
「こどもだまし」の罪
真剣勝負というのは質問に答えるときも同じです
そしてそれは、
違う理由もあると思うのです
これは娘のエピソードなのですが
小学1年生の時、
漢字の宿題で全ての漢字をノート1行分(約10字)書くという課題が出されました。
娘は、
まだ書けない漢字を練習することの意義は理解できましたが、
すでに書ける漢字を10回も書く必要性が分かりませんでした。
そこで、
教師に質問したところ、
次のような回答がありました。
「ノートの余白があまっているともったいないでしょ?
ノートさんが可哀そうだから書いてきてね」
この回答に対して娘は
「私は漢字を書く意味を聞いたのに、
意味のわからないことを答えられた!
馬鹿にされた!」
と不満を言っていました。
さらに、
「じゃあ、鉛筆の芯が無駄になくなるのは可哀そうではないのか。
と返したかったが面倒なのでやめた」
とのことでした。
「あの先生のことは信頼しない」
という悲しい結論を出してしまいました。
この件はまあ、後日何とか決着させましたが…
子どもとの会話に真剣に向き合うということは、
子どもと信頼関係を築く上でも必要なことなのかもしれません。
良かれと思って分かりやすく説明したつもりが思わぬ反感をかってしまう・・・
そんなリスクもあるのです。
結果論かもしれませんけど
ある意味子どもほど恐ろしい生き物はいないのかもしれません